Binary Diary

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「行列のできる名店」について思うこと

どうもこたにんです。

行列のできる名店について思うこと

行列のできる名店、ってあるじゃないですか。
ラーメン屋さんとか、よくこういった箔がつくじゃないですか。
それはシンプルに、人が絶えず訪れるほど良いお店だからなのだと思いますが。
ここでいうところの「良い」という価値はどこから生まれてなぜ行列になるのか、という話をします。
 

もともと価値は潜在している

もとをたどると、行列が存在しない時期を経ているはず。
開店当初から強くブランディングされていると別ですが、基本的には。
どのようなお店・品物であれど、提供先がいなければ、いくら作っても無価値です。
そのときは明らかに価値は潜在しています。
自分の描いた絵に価値がないまま世を終えて、その後に白日の下で価値が生まれた画家なんかもいます。
 

価値はつけてもらわなければいけない

価値というのは、自分ひとりでつけられるものではない。
誰かに値踏みされて、バイラルで広まって、とかにならなければいけない。
自分では価値があるものと思っていても、それは思っているだけかもしれない。
価値は他者から生まれる方が、正しいものです。
 

行列=価値の可視化

冒頭に話した「行列のできる名店」で価値について掘り下げます。
そもそもお店を構えるとき、大繁盛させてやる!という野望や夢はあれど。
それを現実として見据えて、行列を想定した店構えにしないはずです。
であれば回転効率と運用コストを考えて、ある程度の店構えにすると思います。

ただ、バイラルや取材などにより、結果として生まれていく行列。
これはひとえに「当初想定していた店構えでは捌き切れないほどの集客を獲得している」ということ。
それは明らかに、他者が付ける価値の可視化です。
並べんでいれば並んでいるほど、価値が高そうに見えて魅力が増す。
 

行列=本当に価値があるのか

行列は価値の可視化、と言いました。
ただ、それが本当に価値が高いかどうかは別の話です。
価値というものに対して、どこを軸としているのか。
美味しさ、コスパ、雰囲気、などなどあると思います。
それが自分の考える価値とマッチしているかどうか、は行列ではわかりません。
行列の本当の価値を知るには行列に並ぶしかないのです、これいかに。
 

並んだコストを価値に転換している

少なくとも行列は並ぶものです。
並んだこと、その時間的コストをどこかで回収しようとします、心理的に。
それがなぜか、お店に対する価値に転換されてしまうんです。
時間を消費したことを「良いお店だから」と転換してしまうんですね、正当化してしまうんですね。
そのお店の価値を見出すことが目的だったのに。
「並ぶ価値がある」「並ぶ価値はない」という値踏みになってしまいます。

これはとても不思議な状態。
行列自体に価値はない、並ぶだけには価値はないです。
価値はその先にある、美味い、安い、などに付けるもののはず。
 

並んでいるから並ぶ

もはや何が価値なのかわからず、当たり前に並ぶ。
なぜそこに並ぶのかというと、並んでいるから。
完全に価値を得ることを見失った状態。
もはや「行列のできる名店」ではない、「行列を体験できる名店」である。

何に対して並んでいるのかを明らかにする

ここまでつらつら書いておいて、とりとめがなくなりそうで無理やりまとめる。
行列をなしてでも得たいものがあるのであれば、何を得たいのかを明確にする。
そこにある価値を正しく認識し、見失わずに、明らかにする。

とまあ、某所に行ったときに大行列を目の当たりにしてふと思ったわけです。