Binary Diary

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時間に対する価値基準の違い

どうもこたにんです。
 

時間の価値をいかに見出すのか

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時間とは不可逆なもので、絶対的なものです。
過去にこんな記事を書きました。

www.kotanin0.work

このときにわたしはこう結論付けました。

今一度、自分の時間の使い方、考え方を整理して掘り下げてみるといいかもしれない。
今自分がやっている行動が無駄かもしれないし、より大事に思えるかもしれない。

 

時間あたりのお金

たとえば、こんなふたつのケースがあるとします。

  • 1万円するアクティビティで1時間遊んだ
  • 1万円するゲームで100時間遊んだ

このふたつ、明らかに時間あたりのお金が違います。

前者は、時間あたり1万円の価値の遊びです。
その時間がとても濃密で、とても価値のある遊びというわけです。
後者は、時間あたり100円の価値の遊びです。
これだけ聞くと価値が低いですが、コスパで見ると非常に良い、さすがゲームですね。

上記はいずれも、時間に対してお金をいくら使ったのか、が判断基準になっています。
別の言い方をすると、どれだけのお金を払っていい時間を過ごしたのか、ということです。
より上質で濃密な時間を過ごすために、お金をかけるわけです。
「遊び」というたとえにしたので伝わりが良いかと言われるとわかりませんが。
 

お金あたりの時間

先の例で、判断基準を逆転させます。

1万円するアクティビティで1時間遊んだ場合。
1万円使って1時間しか失いませんでした。
それは時間に対して価値を見出しているわけです。
不可逆で絶対的な時間をわずか1時間しか失わなかったわけです。

1万円するゲームで100時間遊んだ場合。
1万円で100時間も失ってしまいました。
先ほどの100倍、99時間も多く失ってしまったわけです。
不可逆で絶対的な時間を時間単価100円の価値でみすみす手放してしまったわけです。
とても時間的コスパの悪いことをしてしまったわけです。
 

時間の価値基準を何におくか

これらの例え話は、時間の価値基準、判断基準を別のところにおいているから起こる事象です。
失いゆく絶対的な時間に、娯楽的な付加価値を見出したひと。
失いゆく絶対的な時間を、時間そのものに価値を見出したひと。
この両極端が招いた、時間に対する価値基準の違いの思考です。

いま自分が使っている時間は何のためのものなのか。
時間を失って何を得たのか。
それは楽しいひとときなのか、自分のための何かなのか。

時間というのはお金で買えるものではないです。
「時は金なり」ではなく「時大なり金」です。

時間は無駄にしてはいけない。
お金で買えない価値がある。