Binary Diary

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何故カーナビはながら運転の危険性をはらみながらもあの形で普及したのか?

 

どうもこたにんです。

運転免許の更新をしたのです。
そのときの講習で「携帯電話の画面を注視しながらの運転は違反である」という話がありました。
と同時に「カーナビも同様に注視あるいは映像の視聴はダメだよ」という話もありました。

その話を聞いて思うわけです。
「ながら運転は危険だから気をつけなきゃなあ」
と、ゴールド免許所持者らしく自分ごとに落とし込むわけです。

否。
「では何故カーナビはながら運転の危険性をはらみながらもあの形で普及したのか?」
はい自問自答。

そもそもカーナビとは

カーナビは、自動車での移動における補助の役割を担うシステムです。
文字通り、画面越しにナビゲーションを行なってくれます。
みなさまが想起するカーナビは、おおよそ認識齟齬はないと思います。

目的地への移動経路を自動で走査して判別、右左折すべき道を示します。
混雑状況や高速道路の出口のサジェスションや、到着までの時間見積もりまでしてくれます。
それに加えて、ラジオや音楽、テレビ放送やDVDなどの再生機能も備えています。
たいてい運転席と助手席の間のフロント部分に備え付けられます。

これが、カーナビ。
イメージのずれはありませんよね。
 

何故カーナビはながら運転の危険性をはらみながらもあの形で普及したのか?

主題。
なぜカーナビは、あのかたちで普及したのか。

「地図が可視化されるから」「目的地までの誘導があるから」という理由ではなく。
それらは、純粋にカーナビが普及した理由です。
そうではなく、なぜ「あの形で」普及したのか。
運転時に画面を中止することが危険と隣合わせであることは明らか。
なのにそれでいて画面を実装した理由、それがなぜなのかを考えたい。
自分なりの仮説に留めますが、わたしのロジックを垂れ流します。

それではひとりブレスト開始。

カーナビのない時代に、カーナビのようなものを企画する思考になってみる。
するとまず思いつくのは「音声での案内」のはず。
だって、視覚は運転に委ねているので、映像での案内というのは使いづらい。
となると音声でのナビゲーション、というのが真っ先に現れる。

ただそのときに、音声だけでなく映像も用いたんだよなあ。
ここなんだよなあ。。
ナビゲーションを求める運転者になって考えてみる。

運転していて「300m先を右」と言われたとて、その300m先がどこなのかはわからない。
時速60kmで走行しているのであれば、300mは20秒程度で走るくらいである。
という思考に運転中にはならない。
「何個先の信号なのか」「交差点なのか」「目標物はあるのか」などを知りたい。
かといってナビゲーションにそんなに大量の情報を言われたらたまったもんじゃない。
「2個先の信号、左奥にコンビニ、手前にガソリンスタンド、右奥にカラオケがある交差点を右」とか言われたら、情報が過多。
だし、外部の音が邪魔をして聞き取れなくなってしまうと元も子もない。
音声でナビゲーションするのには限度の線引が難しいということがわかった。
人によって、必要な情報が異なるのである。

となると、音声という無理やり情報がインプットされるものではダメ。
それ以外の感覚を使って情報を自分で取捨選択できる方法でなければならない。

・・・映像。

ふぅ、行き着いた。
「情報を自分で取捨選択できる方法」でなければいけなかったからだ。
そこに副作用として危険性が乗っかってきたんだ。
必要なシステムの副作用として危険性があるんだ。

なるほどなあ。
ブレスト終わり。