どうもこたにんです。
『五輪書』っていう兵法書があるんですよ
『五輪書』という書物をご存知でしょうか。
オリンピックに関する書物ではありません。
戦国時代の大剣豪、宮本武蔵が晩年に書き残した兵法書です。
宮本武蔵といえば「二刀流」という剣術を体現した無敗の剣豪です。
そんな凄腕の大剣豪が自身の流派について書き残したもの、それが『五輪書』です。
五輪書とは「地・水・火・風・空」の五巻に分かれた書物です。
密教の五輪(五大)というものになぞらえているのが、書物のタイトルの由来です。
五巻は以下のように分かれています。
地の巻
自らの流を二天一流と名付けたこと、これまでの生涯、兵法のあらましが書かれている。「まっすぐな道を地面に書く」ということになぞらえて、「地の巻」とされている。
水の巻
二天一流での心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれている。「二天一流の水を手本とする」剣さばき、体さばきを例えて、「水の巻」とされている。
火の巻
戦いのことについて書かれている。個人対個人、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えなどが書かれている。戦いのことを火の勢いに見立て、「火の巻」とされている。
風の巻
他の流派について書かれている。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととされている。
空の巻
兵法の本質としての「空」について書かれている。
このように、段階に分けた五巻の書物なのです。
空の巻がものごっついカッコいいんですよ
地、水、火、風、空。
5つの書物があるのですが。
その中の『空の巻』が、ものごっついカッコいいんですよ。
空の巻以外の4つの書物は、章立てが細かいのです。
地=11章、水=38章、火=29章、風=11章。
これだけ細分化されて、それぞれについて事細かに記されているのです。
ただし、空の巻。
1章しかないのです。
最終巻にして、たった1章しかない。
これだけでカッコいいじゃないですか。
しかもそこに記されているのは、具体的な構え方でも戦い方でもありません。
「本質」なのです。
流儀を身につけるための、本質なのです。
カッコいいんですよ。
というわけでここからは、空の巻の訳文とともに、自分なりの解釈を織り交ぜてみます。
五輪書〜空の巻〜 を自分なりに解釈してみた
原文はこちら。
二刀一流の兵法の道、空の巻として書顕はす事、空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也。世の中においてあしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず、皆まよふ心なり。
此兵法の道においても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして色々まよひありて、せんかたなき所を空といふなれども、是実の空にはあらざる也。武士は兵法の道をたしかに覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらかず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなくまよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。
実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道じきどうよりして、世の大かねにあはせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひづみによって、実の道にはそむく物也。其心をしつて直なる所を本とし、実の心を道として兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに大きなる所をおもひとつて空を道とし、道を空と見る所也。
空は有善無悪、智は有也、利は有也、道は有也、心は空也。
たったこれだけ。
段落ごとにどういったことが記されているのか、現代語訳をもとに見ていきましょう。
現代語訳はこちらを参考にさせていただきました。
空(くう)を正しく理解すること
二刀一流の兵法の道を、空の巻として書き表した。空という心は、物事がない所、知ることができない事を空と見るのである。もちろん、空とは何もないことである。ものがあることを知って、ないこと知る、これが空である。世間一般の軽薄な見方では、物事の道理をわきまえないこと空としているが、真の空ではなく、すべて迷いの心である。
武蔵の言う「空」とは、非常に哲学的な考え方です。
ただ、仏教の教理の「色即是空」の「空」とは意味合いが異なります。
さらに言うと、ソクラテスの言う「無知の知」とも異なります。
無知の知なんて、武蔵に言わせれば「世間一般の軽薄な見方」として一刀両断されています。
二刀流だけど一刀両断。
もとい。
アリストテレスの言う「形而上学」と少し近い考え方かもしれません。
武蔵は「ものがあることを知って、ないこと知る、これが空である。」と言っています。
哲学問題で言うところの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いにすごく近い考え方です。
論語で言うところの「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」もかなり近い考え方かなと。
ないことを知る。
これこそが武蔵の言う「空」であるわけです。
ないことを知ることで優劣をつけるようなことはせず、あくまでも自分自身の中で、何を知らないのか、知らないことがあるのかをしっかりと理解することが大切だと。
空を正しく捉えること
この兵法の道においても、武士として道を歩んでいくのに、武士の掟を知らず、空になれずにいろいろ迷いがあってどうしようもないことを空と言うけれども、これは正しい空ではない。武士は兵法をしっかりと身につけ、その他の武芸もよく練習し、武士が進む道は少しも暗くなく、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、観と見の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空だと考えるべきである。
空を正しく理解し、それに向かって進んでいく。
そのときに我武者羅になってはいけないし、闇雲になってはいけない。
五輪書はとにかく武芸に関する書物なので、武芸の嗜みとして例えられていますが。
大局を見て、空に向かってひたむきに鍛錬する。
目で見えるものだけでなく心でも観えるように、精神を研ぎ澄ます。
そうすることで、理解はしてても見えていなかった「空」というものを、心で捉えることができるようになる。
頭で理解し、心で捉える。
「努力」という言葉で片付けるには軽すぎる。
努力してるときってよく「何のために努力するのか」を考えがちですが。
それを考えることすらせず、ただただ努力するのです。
空を会得すること
正しいことを知らない間は、仏法に頼ることなく、世間一般に頼ることもなく、個人個人では正しい道と思って、よいことだと思っても、正しい道から世の中の大きな物差し(規準)に照らし合わせると、自身の気持ちのひいき、自身の目の歪みのために、正しい道にそむいているものである。この道理をわきまえてまっすぐな所を根本とし、正しい心を道として兵法を幅広く鍛錬し、正しく明らかで大きな所をつかんで、空を道とし、道を空とみるのである。
空に向かってひたむきに鍛錬していると、主観に苛まれるときがあります。
わかり易い言葉でいうと「周りが見えなくなる」ということです。
「自分のやっていることは正しい」と思い込んでしまうことです。
この考えは決して間違ってはいないが、周りが見えなくなってはいけません。
常に「空」だけは見続けなければいけません。
空を心で捉える、空を観ることができなければ、空に近づく道は見えません。
しかもその道というのは、俯瞰して見なければいけません。
一人称、自分の目線だけでは決して見えない道。
自分が正しいと思い込まず、正しくないこともあると認識する。
では正しいとはなにか?というのはものごとを俯瞰して見ることで自ずと見えてくる。
視座を高く、視野を広く持つことが、空に近づく道となるわけです。
空の域に達すること
空には善のみがあり悪はない。兵法の智、兵法の利、兵法の道を備えることで、その心は空の域に達するのである。
ここまでを理解し、捉え、会得すると、空というのは即ち善だということがわかる。
全てを兼ね備えたときに突然、空の域に達するわけです。
知らないことを知り、鍛錬を怠らず、空に近づく道を観る。
ただひたむきに、これを繰り返していくことで、空の域に達する。
ただこれで終わりではなく、空の域に達したところで、さらなる空を知ることになる。
そうやって自分のフレームを広げ続けていくことが、境地への道になる。
空とはゴールでありスタート
空の巻を自分なりに読み解いた結果、得られたのはこの一言。
「空とはゴールでありスタート」
このゴールというのは具体的なものではなく、かなり漠然としたものです。
「自分にとって足りない何か」を会得することをゴールと指しています。
そのゴールに達した時、次にまた自分に足りない何かを知ることになります。
こうしていくことで、心は磨かれ、武芸を極めることができるというわけです。
(ここで言う「武芸」とは、現代語で言うところの「スキル」に近いもの)
今回は宮本武蔵の『五輪書』のうち『空の巻』を読み解いてみました。
兵法書とはすごいもので、現代にも通ずる考え方が根幹にあるのですね。
(だから未だに武経七書はビジネス書にもなるわけです)
歴史を彩った武人や文人の教えを学ぶロマン。
哲学書を読み解いているみたいでとても気持ちのいい時間でした。