どうもこたにんです。
「教えられること」と「教えられないこと」
誰かによって教わることってあるかと思います。
学校の先生から勉強を教わる。
ダンスの講師から踊り方を教わる。
先輩社員から技術を教わる。
いろんな場面で「教えられること」があるかと思います。
でもこれらのことって、教えることは簡単です。
だっていずれも「教科書」というものがあり、正解があるからです。
勉強なんて絶対的な知識を覚えるだけだし、ダンスも決まった振り付けを覚える。
技術も同じです、答えや定石があってそれを身に付けるのです。
ただ、それだけではない。
「教えられないこと」というものがあります。
勉強をするための勉強法。
ダンスでより感情を表現する。
技術を組み合わせる着想。
教科書通りに、体系的に教えられること以上のこと。
個々人の性質や考え方、環境などでも変わってくること。
これは「教えられないこと」です。
やり方や適応のためのコツを伝えることはできても、きちんと教えることはできないです。
教わった通りにやるにしても、個人の感覚や感性によって大きく結果が変わるからです。
「教えられないこと」にこそ意味がある
この「教えられないこと」にこそ、大きな意味があるんじゃないのかなって思う。
人それぞれで変わってくる、文字通り「個性」が現れるものなのかなって思う。
教わった通りにすることなど、要はクローントルーパーです、量産型です。
もっと言うと、それらを自動で行えるロボットがあれば十分です。
言い換えると、「教えられないこと」があるからこそ個の価値というものが出ます。
ロボットでは実現できない、クローンさせることのできない、個の思考。
何をどう考えて何をどう導いていくのか、教わったことをどう自分らしく活かすのか。
教わったことを教わった通りにするだけでなく、新しい価値を出していく。
そこにこそ、大事な大事な意味があるんじゃないかな。
仕事の考え方、立ち居振る舞い。
人との接し方、言葉選び。
時間の使い方、優先度。
自分で考えて自分で答えを導く。
胸を張って誇れるもんが自分にどれだけあるのかって。
そいつをさあ精一杯の、大口で耽美に語ればいい。
って藤原基央さんも言ってたよ。
ああ。。。
「教」って文字がゲシュタルト崩壊した。