Binary Diary

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文章を解釈することが多世界解釈となりえる

どうもこたにんです。

文章を解釈することが多世界解釈となりえる

タイトルからは想像もできないと思いますが、前回の記事の続編です。

www.kotanin0.work

 

前回の記事の最後に、こんな文章を書きました。

 

「先ほど先生が話した先人の言葉は先先役立つ先進的な言葉だと思った矢先に先客の祖先の言葉に率先して触発されて後先考えずに庭先の先端に先輩を先導した」

 

こんな文章を書かれたとしても、すべての「先」の意味がわかると思うんですよね。

なんでわかるんだろうというのはおそらく、それぞれの「先」の用法を過去に学んでいたり実体験として使っていたりすることで、自然に身に付いたのだと思います。

これは言語を操る人間としては、当然の能力だといえます。

 

「先」という言葉は、前か後かどちらかの時間軸を示している、そのどちらの状態でもある。

これはまさに「重ね合わせ」の状態で、ゆらぎの状態であるということです。

それ対して、前後に言葉を乗せることで、状態が確定する。

我々は、並んだ言葉を観測することで、その言葉が持つ意味を確定させているわけです。

 

文章というものは、聞き手や読み手が受け取ったときにはじめて、その結果が決まるということになります。

言い換えると、言葉は受け取られるまで多世界の入り口になっていて、誰かが受け取ったときはじめて、その世界線がひとつに確定すると。

言葉を解釈する我々は、無意識のうちに観測者としての立ち振る舞いをしているというわけです。

 

このことが何を意味するのかというと、文章読解において大切なのは、言葉ひとつひとつの意味を把握するよりも、その言葉を観測してひとつの状態に決定することです。

「先」と書かれているものが、過去なのか未来なのか、その状態を決定することが、ことばの意味を理解する上で大切になるわけです。

 

人の言葉は最後まで聞く、というのはまさにそういうことです。

文章全体を見ずに切り取ってしまうことで、その観測者のみが別世界に行ってしまい、誤解というものが生まれるわけです。

誤解とは、解釈を誤っているわけではなく、異なる観測結果で別世界にいるだけです。

なので、誤解している人と認識を合わせることが難しいわけです、別世界から引っ張り出さなければいけないので。

 

ただ、誤解をすること、多世界解釈となることが良くないことではないです。

言葉をそれぞれ解釈し、それぞれの世界が生まれることは、ごく自然なことです。

一意に定める必要はないですからね、それこそがクオリアですから。