どうもこたにんです。
アルケーは「リズム」である
万物の根源、アルケー。
タレスはアルケーは水だと、ヘラクレイトスは火だと、ピタゴラスは数だと唱えました。
数多くの自然哲学の考えごとに、数多なアルケーが提唱されています。
上述した自然哲学者たちは、自然のものごとの根源にあるものは何かを問いただし、そこに常にあるもの、根源となるものをアルケーとして定めました。
(今回の記事は哲学です。言葉の解説は挟みません。)
わたしは思うんです。
アルケーは「リズム」である。
日本語でいうところの「律動」あたりでしょうか。
自然哲学とは違うかもしれませんが。
すべてがリズムで成り立つのがこの世界なのかなと。
わたしは思うんです。
生けとし生けるものすべて、心臓から全身に血を通わせています。
血を通わせるために心臓が鼓動しています、心拍というやつです。
一定間隔の鼓動、心拍、ハートビート。
生き物というのは、ビートを刻んで、リズムに乗って生きているわけです。
自然現象も、リズムによって成り立ちます。
太陽が昇って沈む、昼と夜が一定間隔で訪れる、月が満ちる欠ける。
地動説によって説明可能なこれらの現象も、地球が一定で回り続けているからです。
リズムというのは必ずしもビートである必要はなく、一定間隔の運動と捉えてよいです。
地球はリズムに乗って回っている、ということです。
色についても同じです。
色というのは光であり、光の波形の波長によって色が決まっています。
波長というのは、一定間隔の波の速さのことであり、そこには波のリズムがあります。
その他のすべての自然においても、量子的に見るとすべてが周期的な運動で出来上がっています。
これは近代物理学によって判明したことではありますが、電子が周り続けていることがそれすなわちですね。
マクロで見ても、どんな大質量の天体でさえ、回転という周期的な運動をしています。
このように、この世に、リズムが常に存在しているわけです。
ただ一つ難しいのは「時間」というもの。
心拍も、光の波長も、自転も公転も、全て「時間」という一定間隔のもと行われる運動です。
運動というのがそもそも、時間という概念が必要不可欠であるからです。
となるとアルケーは「時間」なのでは?とも思ってしまいます。
今回の提唱においてはそれは逆で、リズムから時間が生まれる、と捉えます。
一定間隔のリズムであること、それを刻むことによって「時間」という概念が生まれるわけです。
これは実は、現在の「秒」の定義でも同じことが言えます。
秒(記号は s)は、時間の SI 単位であり、セシウム周波数 ∆νCs、すなわち、セシウム 133 原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s−1 に等しい)で表したときに、その数値を 9192631770 と定めることによって定義される。
この定義を受けて、日本の計量法においては「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍に等しい時間」(計量単位令別表第一第3項)と定義されている。
現在の定義では、とある原子運動の約90億周期を1秒としているわけです。
これは感覚的に捉えているリズムを科学的に示している例でもあります。
リズムというのは非常に感覚的で、特に人間はリズムを意識しています。
感覚的に気持ちいいもの、というのはすべてリズムが良くできており、それが気持ちいいという感覚を作り出します。
言葉でいうところの、俳句とか、都々逸とか。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」とか、「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」とか。
5-7-5-7-7のリズム、7-7-7-5のリズム、気持ちいいですよね。
音楽においても、拍子というものが存在し、拍を分割してさまざまなリズムが生まれます。
音楽の三大要素といえば「リズム」「メロディ」「ハーモニー」ですが、メロディとハーモニーはいずれもリズムありきです。
音というのは波であり、波というのはリズムですからね。
拍としてのリズム、音としてのリズム、いずれも音楽を音楽たらしめるものです。
それが合わさることで、気持ちいい音楽というものが生まれるわけです。
ただ、色や自然現象といったリズムは、人間はリズムとしては意識していないです。
その感覚は無意識下にあるので、色を見て気持ちいいと感じることは難しいです。
あくまで人間が人間として、リズムを感じることができるのは「音」を媒体としています。
それが、旋律(メロディ)を持つ音かもしれませんし、ハートビートのような拍を打つ音かもしれません。
リズムを感覚するには「音」というのが必要不可欠なのです。
それすなわち、アルケーは「リズム」であり、人間はリズムを「音」によって感覚するわけです。
人間にとってのアルケーは「音」である、と言い換えてもよいかもしれません。
アルケーは「音」である
なので「音」というわけです。
万物の根源、アルケーを人間として感覚するための媒体が「音」である。
生けとし生けるものすべて、自然現象すべて、この世界のすべて。
すべてのものの源には「音」があります。
万物から音を受け取って、万物と音を奏でて、万物とともに生きていく。
そういった思いが「音」に詰まっています。
それでは聴いてください。