どうもこたにんです。
誰が作ったものなのか
これからは、記事でも絵画でもプログラムでも、人間が作ったものかAIが生成したものか、区別がとても難しくなってきます。
それは問題なのか。
区別が難しくなると何がいけないのか。
アウトプットされるものの質が同一の場合、それを作ったのが人間かAIか、その違いがなぜ大切なのか。
AIはただただルールの中で表現の自由を持っているだけで、その自由の制限をしているのは人間ではないのか。
「誰が」作ったのか
では、アウトプットが同一の場合に、人間はどこに価値を見出すのか。
それは、アウトプットをしている表面の部分。
「誰が」というところに価値を見出します。
何かの絵画を「ゴッホが書いた」「AIが書いた」「子どもが書いた」とする。
それぞれに作品の違いはないとする。
そうした場合、人間は「ゴッホが書いた」絵画に価値を見出す。
なぜならばあのゴッホさんが書いたから。
どこぞの一般人が書いた、どんな下手な文章だろうと、それを著名な作家がアウトプットすると、それは秀逸な表現の文章として取り扱われる。
裏にどんなすごい作曲家が居たとしてもその楽曲を無名なアーティストに提供しても価値を見出されない。
とにかく「誰が」の部分に、価値の比重が高くなる。
今までも多少そうであったが、その考え方が加速することになります。
作品の価値は作品にはなく、それを出した人にある、ということになります。
表面の価値を売り買いする、今の時代でいうとインフルエンサーに近いかもしれません。
「誰が」の価値は重要なのか
今までの話は、「誰が」の価値について話しました。
あたかもその価値が今後重要な考え方になるかのように、話しました。
はたしてその価値は重要なのでしょうか。
冒頭にも言いました。
「区別が難しくなると何がいけないのか」と。
価値に差がなくなると、何がいけないのか。
価値の差を生むことが、なぜ必要なのか。
それは、人間が人間としての尊厳を持っていたいから。
作り上げた人の価値に差がなくなった上で、そこまでの過程が代替可能になってしまうと、それはもう人間を必要としなくなります。
作り方も出来上がりも同一で価値も同じなのであれば、よりコストが低く完成する手段を選びます。
そうなるともはや、人間は代替可能ということになり、人間としての価値がなくなるからです。
それを保つには、区別が必要です。
価値を生むために相対的に評価する必要があります。
機械と比べて人間の作るものは良い、と。
この時点で人間は受け身です。
今のところ機械に自我はないので、尊厳だとか価値だとか代替可能だとかいうことに対するこだわりはありません。
重要なのは、価値を保つことというよりも、価値の差をつけるために、人間が常に優位であることです。
受け身ではいけません。
以前の記事で、こんなことを書きました。
この記事の文章のどこが自動生成された文章なのか。
今回の記事でも、ここまでの文章の一部、どこが自動生成された文章かわかりますかね。
ここまで記事を読み進めて、一部に自動生成された文章が紛れるなんてことを考えることもしなかったと思います。
なぜならばここは、わたしが書いているブログだからです。
それは、ブログは人間が書く、このブログはわたしが書く、それが当然だと思っているからです。
誰が書いているかをわかっているから、まさか自動生成とは思わないわけです。
「思考」は代替不能
人間は考えます。パスカルも言ってました。
そこに人間としての偉大さがあり、思考をするという行為は代替不能です。
思考という、代替不能な領域を鍛錬して育み続けることこそ、これからの価値比べのひとつのストロングポイントになるかもしれません。
自分らしさ、出してこ。