どうもこたにんです。
多世界解釈と決定論についてつらつらと思うことを書きなぐる
「シュレーディンガーの猫」をご存知でしょうか。
量子論の解説のときに用いられがちな思考実験です。
説明を省略して1行でまとめるとこうです。
「観測するまでその猫は生きているし死んでいる、どちらの状態もとりうる重ね合わせの状態」
詳しくはWikipediaを読んでください。
少し話は逸れます。
現代で話題になっている新技術「量子コンピューター」というものがあります。
これは量子力学の「重ね合わせ」という性質を利用して実現されています。
今までのコンピューターは、1ビットには0/1のいずれか1つの状態しか持てませんでした。
量子コンピューターでは、1ビットは0でもあり1でもある、という現象が起こります。
なので従来のビットの考え方とは異なり、もてる情報量はnビットあたり2^nになります。
なぜならば、重ね合わせの理論に基づくと、そのビットに持ちうる全ての状態を持てるからです。
「観測するまで0でもあるし1でもある、どちらの状態もとりうる重ね合わせの状態」
となるからです。
はい、エンジニアっぽい話の逸らし方終わり。
この思考はさらに先に進みます。
「観測するまでどちらの状態もとりうる」というのは「観測した瞬間にどちらの状態か決定する」ということ。
言い換えると「観測した瞬間にその世界は分岐する」ということになります。
この考え方は「多世界解釈」と呼ばれる、歴とした学術問題です。
もっと身近な言葉で言い換えると「パラレルワールドが存在するのかもしれない」ということです。
冒頭のシュレーディンガーの猫の例でいうと「猫が生きていた世界」と「猫が死んでいた世界」が、どちらも存在しているということです。
ミクロな量子力学が、マクロな哲学にまで発展しうる考え方なのです。
冒頭の重ね合わせの話で何が言いたいのかというと、全てのものごとはあらかじめ決められているものなのか?ということ。
「決定論」と呼ばれる哲学的な概念。
身近な話に置き換えてみるとこうです。
「宝くじは買った瞬間に当たりくじかはずれくじか決まっている」
もっと固い決定論だと「宝くじを買うことを決定したときに当たっているか決まる」まであります。
全てのものごとは決定しており、そこに自由意志はなく抗えない、ということです。
これは多世界解釈とは対極にある考え方のように見えます。
が実際は、多世界解釈は決定論的です。
分裂した世界は、あらかじめ何かの意志によって決められた世界なのです。
何かの意志で、宝くじを買ったが外れた、という世界に閉じ込められているのです。
ここで言う何かの意志というのが「神」と形容されるものです。
「世界そのもの」と言ったほうがいいのか、我々の意識の外にある存在です。
だとしたら、なぜわたしたちは、あたかも自分の意志で決定していると思うのでしょうか。
それは、意志の意志たる所以、「自由意志」という概念を持ち出したいからです。
全てが決められているという固い決定論に基づいてしまうと、自分という尊厳がなくなります。
なぜならば、全て決められているから、起こったことはすべて起こるべくして起こったこと。
宝くじがはずれてしまったのは、はずれくじを引く世界に閉じ込められているから。
その世界を選んだのは自分自身ではなく、もはや宇宙そのものです。
量子力学の重ね合わせの話に戻ります。
「観測した瞬間にどちらの状態か決定する」という理論だという話をしました。
それを世界にあてはめると、観測者は一体誰なのでしょうか。
神なのでしょうか、宇宙なのでしょうか。
大当たりのくじを手に入れた世界などは妄想です。
が、もしかしたら大当たりのくじを手に入れた世界は同時に走っているのかもしれません。
しかしその世界とこの世界は独立しており干渉はしない。
なぜならばそれは、この世界、この宇宙が誕生した瞬間に全てが決定しているからです。
これが、固い決定論。
誰もあらがえない。
この宇宙には。
この記事も、書くべくして書いたんだろう。
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いや、待て。
こたにんどうした?
世の理に近づこうとしているのか?
意識を保て。
アカシックレコードは存在し得ないんだ。
それでは聴いてください、シュレーディンガーの猫。
TOY CONTEMPORARY 「シュレーディンガーの猫」