どうもこたにんです。
バイアスをかけるということ
「バイアスをかける」という言葉を耳にする機会というのがあるかと思います。
たとえば「B型だから○○」とか「平成生まれは○○」とか、そういったものです。
何かしらのセグメントに分類して、そのセグメントの傾向でものごとを括って解釈することを「バイアスをかける」と言います。
これは、かなり広義的なものであり、国として「多様性を認め合う共同参画社会」を実現していくために定義しているものです。
まあでもここはただの個人ブログなので、国としてとかでもなく、バイアスについて説法するわけでもなく、ただただ勝手に思考します。
バイアスをかけてはいけないわけではない
バイアスをかける、そのこと自体は悪ではないのかなと思う。
自分自身のこれまでの経験や、学んできたこと、そういった心身で感じてきたことをもとに、バイアスをかけてものごとをグルーピングする。
これには何も悪いことはありません。
言葉を変えると、「自分のものさしで測る」ことと同義です。
自分のものさしで測ることは悪いことではないです。
ものごとを解釈しやすいようにフレームに収めて、判断しやすいように分類して、咀嚼する。
そのために、自分自身のために、バイアスをかける。
これに何も悪いことはないんじゃないのかな、とわたしは思います。
バイアスを押し付けてはいけない
ただ、そのバイアス、自分自身のものさしを、他人に押し付けることはしてはいけません。
バイアス、ものさし、価値観、そういった、個々の考え方を押し付けるのは良くないです。
ものさしはあくまでも自分自身のためのものなので、そのものさしを他人に当てはめさせたところで、何も生まれないです。
他人には他人のものさしがあるので、それぞれが持つものさしの違いを詳らかにする方が建設的なんじゃないのかなと思う。
バイアスに過度に反応しない
バイアスをかけるような言動を見かけることはままあります。
ただ、それに対して過度に反応するというのも、あんまり良くないんじゃないかなと思う。
あからさまにバイアスをかけにきてる場合もあるかもしれませんが、それよりも、何気ない会話の中の何気ない発言が実はバイアスをかけている、というケースが多いはずです。
発言した人にとっては、無意識だし他意も悪意もない、もちろんバイアスを押し付けたいわけでもない。
それに対して「バイアスをかけている」などと、過度に発言をするのは違う気がする。
「バイアスをかけているかどうかというものさし」を押し付けていることと変わらないからね。
なんでもバイアスで片付けてはいけない
近年のムーブメント的に、なんでもかんでもバイアスとかそれに類する言葉で片付けられがちです。
思想や意見などが違う人の言動に対して、バイアスがかかってるだのと。
思想や意見が違うこと、異なった考えを持っていること、それは相手が異なった考えを持っているのではなく、相手から見て自分も異なった考えを持っているのです。
「自分から見て相手が違う」というのは、相互に成り立つ事象です。
なので、その違いやズレというのを意識合わせしていく方が建設的なのです。
バイアスの語源はフランス語で「傾き」
バイアスという言葉の語源は、フランス語の「傾き」「傾斜」から来ているらしい。
傾きという語源が転じて、偏り・偏見になったというわけですね。
傾きというのは、相互の位置が異なるから生まれるものです。
位置が異なったら傾きというのは必然的に生まれてしまうわけです。
自分からあえて位置を変えて言動を変えると、傾きを生むこともできてしまいます。
バイアスをかける、バイアスがかかる、それらの性質の違いをきちんと理解しておきたいものです。